目次
- 「初期新高ドイツ語」:時代区分
- 初期新高ドイツ語時代
- 言語上の変化
- 文学
- 主要作品
- 文献ガイド
1.初期新高ドイツ語」: 時代区分
ドイツ語の時代区分を明確な形で最初に行ったのは Jacob Grimm ですが,Grimmm によるドイツ語史の三分法には,「初期新高ドイツ語」という概念は含まれていませんでした。
それまで主流であった Grimm の三分法に一石を投じたのが Wilhelm Scherer です。
Scherer は中高ドイツ語時代と新高ドイツ語時代の間に過渡期の時代として初期新高ドイツ語時代を設定しました。Scherer の区分法では,1350年頃から1650年頃までが初期新高ドイツ語時代とされています。この区分法が現在では最も一般的なものと言ってよいでしょう。
ただし,学者によっては1730年頃までを初期新高ドイツ語時代とすることもあります。
現在では,初期新高ドイツ語時代は単なる過渡期ではなく,それ以前にはなかった統一的な共通語の基礎が形成され始めた時代と認識されています。
2.初期新高ドイツ語時代
いわゆる「大空位時代」(1256年-1273年) 以後,ドイツ皇帝の支配力は衰え,中世の封建社会が崩壊して行きます。
それまでの支配階級,貴族に代わって台頭するのが,都市に住む商人や職人たちです。
初期新高ドイツ語時代の半ば (1517) には社会的大事件である宗教改革が起こります。マルティン・ルターが若き情熱から教会の扉に掲示した『95カ条の提題』が大反響を呼びますが,この文書は,当時その威力を発揮し始めた印刷術によってドイツ全土にもたらされることになりました。
宗教改革は1555年のアウクスブルクの和議で一応の決着が見られ,ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)ではその中にまとめられていた国もしくは都市国家ごとに,旧教(カトリック),新教(プロテスタント)のいずれかを選択する自由が認められました。しかしながら,旧教,新教間の講和が不徹底だったため,そのことが17世紀に起こる30年戦争の火種にもなります。
宗教改革のみならず,人文主義やルネサンスがドイツにも伝えられ,数々の著作や芸術作品が生み出された点でも注目すべき時代です。
3.言語上の変化
次に初期新高ドイツ語時代に起こった変化例を音韻論・正書法,形態論,統語論の各分野につき一つずつ挙げておきます。いずれの場合も変化が一度に生じたわけではなく,その度合いは地域によって時間差が見られます。
二重母音化
中高ドイツ語の長母音 î [i:] が初期新高ドイツ語では ei [ai] に, û [u:] が au [au] に,
iu [y:] が eu, äu [*y] ( * には特別な発音記号(c が反転したような記号) が入ります)へと変化します。
mîn niuwes hûs → mein neues Haus
名詞の体系の組み替え
女性強変化名詞の例
格
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中高ドイツ語
(単数)
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新高ドイツ語
(単数)
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中高ドイツ語
(複数)
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新高ドイツ語
(複数)
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主格(1格)
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krefte
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Kraft
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krefte
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Kräfte
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属格(2格)
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krefte
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Kraft
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krefte
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Kräfte
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与格(3格)
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krefte
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Kraft
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kreften
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Kräften
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対格(4格)
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kraft
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Kraft
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krefte
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Kräfte
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現代ドイツ語でワスレナグサのことを "Vergissmeinnicht" と言いますが,これは "Vergiss
mein nicht!"(私のことを忘れないで!)という命令文を花の名前にしたものです。
この文に現れる mein は人称代名詞 ich の属格 (2格) で (現代ドイツ語の meiner),vergessen の目的語です。
vergessen は古くは属格目的語をとる動詞でしたが,現代では雅語の場合をのぞけば対格 (4格) とともに用いる動詞となっています。
vergessen の他にも属格支配の動詞がありましたが,初期新高ドイツ語時代に対格または前置詞格だけと結び付くように変わっていきました。
4.文学(以下の記述の多くは特に『ドイツ文学史』(佐藤晃一)に負っています。「文献ガイド」参照)
いわゆる「大空位時代」(1256年-1273年) 以後,ドイツ皇帝の支配力は衰え,中世の封建社会が崩壊して行きます。
それとともに,中高ドイツ語時代の文化の担い手,騎士もその勢いが衰え,文学を生み出す力を失っていきました。
その一方で、十字軍の遠征によって交通運輸が発達し,東方より進歩的な技術がもたらされたことによって,商業が栄えるようになります。そして,富を手にした商人を始めとする市民階級が文化の担い手へと成長していきます。
最初は騎士文学などを模倣していましたが,徐々に市民の手によって創造的なものが世に送り出されるようになりました。
職匠歌
都市 (Burg) に住む職人が歌の学校で訓練を受け、厳格な規則にそって作ったのが職匠歌です。
そもそも,厳格な規則(=手本)にそって歌を作るというその行為そのものが,手本尊重の職人的な営みに沿うものでもありました。
靴職人だったハンス・ザックス (Hans Sachs: 1494年-1576年) は,単なる模倣の域を超え,職匠歌を芸術の域にまで高めた,初期新高ドイツ語時代の代表的な作家です。
民衆本
15世紀には,民衆のために比較的やさしいことばで書かれた散文物語を印刷したものが世に出回るようになります。これが民衆本ですが,当初はやはり創造性の薄い内容のものでした。16世紀以降,徐々にその内容が展開し,散文文学確立の素地が作られることになります。
16世紀に出版された代表的な民衆本として,次の二作品が掲げておきます。
『ティル・オイレンシュピーゲル (Till Eulenspiegel)』 (1510-1511)
『ファウスト博士物語 (Historia von Dr. Fausten)』 (1587)
長編小説
文化的な先進国であったフランスやイタリアではドイツよりも早い時期に散文小説が書かれるようになっていました。13世紀頃からドイツはそれらを翻訳という形で自分たちの文化に組み込んでいましたが,初期新高ドイツ語時代に入ってからは,はやり独自の創作が試みられるようになります。
散文小説という形態で一般市民の生活や心情を表現しようとしたのがヨルク・ヴィクラム (Joerg Wickram) で,彼はドイツ長編小説の草分けとされています。代表作の一つは
『金糸 (Der Goldfaden)』 (1557) です。
「[...]バロック様式とは,来世へのあこがれをこめて上へ上へと向かおうとする人間の心を表しているゴシック様式に,ルネサンスを経過した人間の,生の喜びを知って自信を強め,地上に広くはびころうとする意志が合し,そういう根本的な矛盾のために張りつめ,ふくれ上がり,力み,叫ぶかのような不調和な人間の姿を表すものとされている。」(『ドイツ文学史』 佐藤晃一 明治書院 1972年、48-49頁)
バロック期には長編小説が数多く書かれるようになり,そのことがロック期の特徴ともなっています。
数ある作品の中でこの期の代表作と言えるのはが次の作品です。
グリンメルスハオゼン(Hans Jacob Christoffel von Grimmelshausen: 1622?-1676)
『冒険家ジンプリツィシムス (『阿呆物語』; Der abenteuerliche Simplicissimus)』
5.主要作品
次に日本語で読むことのできる初期新高ドイツ語時代の主な作品を掲げておきます。(更新中)
ヴィッテンヴァイラー、ハインリヒ:『指輪』(スイス文学叢書1) 田中泰三訳 早稲田大学出版部 1977年。
『クラーベルト滑稽譚 / 麗わしのメルジーナ』(ドイツ民衆本の世界Ⅰ) 藤代幸一訳 国書刊行会 1987年。
グリンメルスハウゼン、ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン:『放浪の女ぺてん師クラーシェ』 中田美喜訳 現代思潮社 1967年。
グリンメルスハウゼン、ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン:『阿呆物語』 上/中/下 望月市恵訳 岩波文庫 1953-54年。
『幸運のさいふと空とぶ帽子 / 麗わしのマゲローナ』(ドイツ民衆本の世界Ⅳ) 藤代幸一/岡本麻美子訳 国書刊行会 1988年。
『ザックス 謝肉祭劇選』 藤代幸一/田中道夫訳 明星大学出版部 1984年。
『ザックス 謝肉祭劇選(続)』 藤代幸一/田中道夫訳 明星大学出版部 1986年。
『シレジウス瞑想詩集』* 上/下 植田重雄/加藤智見訳 岩波文庫 1992年。
『中世の笑い 謝肉祭劇十三番』 藤代幸一編訳 法政大学出版局 1983年。
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 阿部謹也訳 岩波文庫 1990年。
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 藤代幸一訳 法政大学出版局 1979年。
テープル、ヨハネス・フォン:『ボエミアの農夫』 石井誠士/池本美和子訳・解説 人文書院 1996年。
『トリストラントとイザルデ』(ドイツ民衆本の世界Ⅵ) 小竹澄栄訳 国書刊行会 1988年。
『ハイモンの四人の子ら』(ドイツ民衆本の世界Ⅴ) 岡田公夫訳 国書刊行会 1988年。
パウリ、ヨハネス:『冗談とまじめ』 名古屋初期新高ドイツ語研究会訳 同学社 1999年。
『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』 藤代幸一/田中道夫訳 高科書店 1994年。
『ファウスト博士 付 人形芝居ファウスト』(ドイツ民衆本の世界Ⅲ) 松浦純訳 国書刊行会 1988年。
フィッシャルト、ヨーハン:『チューリヒの幸運の船/蚤退治』 大澤峯雄/精園修三訳 同学社 1998年。
ブラント、セバスティアン:『阿呆船』上/下 尾崎盛景訳 現代思潮社 1968年。
『ラーレ人物語 / 不死身のジークフリート』(ドイツ民衆本の世界Ⅱ) 大澤峯雄/櫻井春隆訳 国書刊行会 1987年。
ライプニツ、ゴトフリート・ヴィルヘルム:『形而上学叙説』 河野与一訳 岩波文庫 1950年。
ルター、マルティン:『キリスト者の自由/聖書への序言』 石原謙訳 岩波文庫 1955年。
ルター、マルティン:『マリヤ讃歌 他一篇』 石原謙/吉村善夫訳 岩波文庫 1941年。
6.文献ガイド(このページ作成時の参考文献等)
日本語で読むことのできる初期新高ドイツ語関連の文献は以下の通りです。(更新中)
川島淳夫他(編):『ドイツ言語学辞典』 紀伊國屋書店 1994年、"Fruehneuhochdeutsch" の項。
三頁にわたる初期新高ドイツ語に関する簡潔な説明が見られる。ドイツ語史のみならず、ドイツ語学を勉強する際には必ず参照すべき辞典である。
工藤康弘/藤代幸一:『初期新高ドイツ語』 大学書林 1992年。
第Ⅰ章「序論」で初期新高ドイツ語の時間的・空間的規定や初期新高ドイツ語時代の言語内、言語外状況等について言及されたあと、第Ⅱ章から第Ⅴ章において初期新高ドイツ語文法に関する解説がなされている。第Ⅵ章では初期新高ドイツ語時代の重要作品の一部(原文)が紹介されており、更にポイントとなる語の解説、和訳が添えられている。
塩谷饒:『ルター聖書』 大学書林 1983年。 ルター聖書の抜粋(原文)に和訳及び注解が添えられている。第Ⅱ部の「ルターのことばへの手引」では文法事項にもふれられているが、あまり詳しくはない。
塩谷饒:『ルター聖書のドイツ語』 クロノス 第二版 1987年。 表題の通り、文法についてもルター聖書のドイツ語に限って説明がなされている。
藤代幸一 / 岡田公夫 / 工藤康弘:『ハンス・ザックス作品集』 大学書林 1983年。ザックスの作品(原文)の紹介とポイントとなる語の解説及び和訳が中心であるが、ザックスのドイツ語に限らず、初期新高ドイツ語全般の文法に関する説明もなされている(「文法篇」は74頁にわたる)。
佐藤晃一:『ドイツ文学史』 明治書院 1972年。
特に「初期新高ドイツ語時代」という章はたてていないので、「中世期」の章の「中世末期」から「十六、十七世紀」の章をご覧いただきたい。
手塚富雄:『ドイツ文学案内』 岩波文庫 1963年。 やはり特に「初期新高ドイツ語時代」という章は見られないので、第2章「近代文学への胎動」及び第3章「十七世紀」を参照されたい。
藤本淳雄他:『ドイツ文学史』 東京大学出版会 1977年。
第3章「1300年-1500年」から第5章「1600年-1700年」を参照のこと。
川島敦夫他(編):『ドイツ言語学辞典』 紀伊國屋書店 1994年。
小島公一郎:『ドイツ語史』 大学書林 1964年。
ポーレンツ、ペーター・フォン:『ドイツ語史』 岩崎英二郎他訳 白水社 1974年。
シルト、ヨアヒム:『ドイツ語の歴史』 橘好碩訳 大修館書店 1999年。
塩谷饒:『ドイツ語の諸相』(特に第5章「ドイツ語共通語の成立」) 大学書林 1988年。